しがない教員の学校・学級・生活日誌

高いアンテナ・豊かな発想で生活を明るくするためのブログ

住所・電話番号

今日の記事は、ふと感じたこと。

私が子どもの頃は、遊ぶ約束をするとき、電話をかけて取り付けていた。そのため、友達の家の電話番号も覚えていた。

しかし、今は状況が変わっている。家に固定電話がない家も多く、電話をかけて約束するのはごくごく稀だ。というか、無い。親同士の携帯電話を使い、電話をしたり、メールやメッセージをしたりして、遊ぶ約束をしている。

そういう状況もあってか、娘は家の電話番号を知らない。電話を使うということがないのである。クラスの子どもも家の電話番号を知らない子どもがほとんどである。


これは、電話番号に限ったことではない。高学年の子どもでも、自分の家の住所を言えない子どもが多いのである。

今は、住所や電話番号が書かれた個人情報を配らないため、友達同士の住所を知らないことが多く、暑中見舞い(残暑見舞い)や年賀状を出す時期(つまり学期末)に、よく住所を聞き合う姿が見られる。しかし、互いに知らないのである。

電話番号の時とはちょっと状況が違う気がするのだ。電話番号は電話をしなくなったから、覚えなくなったといえると思うが、住所についてはあまり状況は変わっていないのではないかと思うのである。

私は子どもの頃、自分の家の住所を知っていた。娘もなぜか家の住所をいえる。しかし、現状を見てみると知らない子どもが多いのだ。


しかし、よくよく考えてみると、手紙や葉書も書かなくなってきたというのはいえる。しかもこれは、子どもが書かなくなったというより、親の世代が書かなくなったということが大きな原因なのかもしれない。
また、家に届く葉書も少ないし、手書きはほとんどない。そのため、書いてある住所には目がいかないというのもあるだろう。


個人情報流出の危険性が叫ばれて久しいが、自分自身の個人情報を知らないということも危険ではないかと、ふと思うのである。

本当の無駄とは

昨日は、午前中、市内の研究会があった。市内の大抵の先生方は何かしらの部に所属している。教科研究とその他の課題別の研究に分かれており、昨日は課題別の研究会であった。教科研究については火曜日にある。

一応任意加入ということになっているが、ほとんどの先生方は加入する。それでも、本市では年々加入者が減っているようだ。なんせ年会費がかかる。


私の学校の職員も8割がた加入しているが、研究会への出席率がかなり低いのである。それはどの学校にも言えることのようだ。1学期の事務整理や特設活動など、理由をつけて休む。

昨日の研究会も参加者は半分以下。

私はこれらの先生方に疑問をもっている。
「なんで行かないのに、会費を払ってまで加入しているの?」
それらの先生方はおそらく、
「みんなが入っているから、入るしかない」
という考えをもっているのではないかと思う。

でも、これって無駄の極みではないか?ただ、金を払うだけだったら、美味しいご飯でも食べればいいのにと思ってしまう。
「いくら、周りに合わせて加入しても、誰もあなたのことなんて意識していませんよ。むしろ、加入しているのに参加しない方が心象悪いですよ」
と思う。とにかく、自分がないのだろう。


附属で働いていた時にお世話になった指導助言の先生(OBでもある)が、市内の校長先生をされており、同じ教科の研究会に所属している。その先生が、
「ただでさえ自分から研修する機会がない先生方なのに、こういう時に勉強しないでいつ勉強するんだろう」
「どうしてこの市は、行かないのが当然になってしまったのだろう」
と、おっしゃっていた。

まさしくその通りだと思う。「新しい」「古い」で議論する先生こそ、こういう研修会に参加して、自分なりに「新しい」を学んでくるのではないか。

http://www.truth-teacher.com/entry/2017/06/25/123523

でも、そういう人ほど、行かずに事務整理。魅力を感じない市だなとつくづく感じる。口が悪くなるが「辞めちまえばいいのに。子どもたちにとって必要ないよ」と言いたくなる。


附属がある市もこのような研究会があり、年齢構成も本市と似ているが、みなさん当然のように研究会には参加していた。よく、勉強されていた。

この違いはなんだろう。やはり、教職員の活性化がないからなんだろうな。ぜひ、本市から出て、他地区で勤務してみてほしい。おそらく、このままのスタイルで行ったら辛くて辞めることになるのではないか?
そうすれば、無駄がなくなるのではないか・・・?
おっと、口が悪い。。。

ベテラン世代

今まで誤解していたところがあったかもしれない。

それは、50代の世代の先生方に対する偏見。

私は、子どもたちが思わず考えたくなるような、話し合いたくなるような授業が大切だと思っている。できている・できていないは別として、それを目指さなければならないと自信をもって思っている。なので、日々、生活全体から、課題になりそうなことを探しているつもりだ。

この50代の先生方は二極化していると感じている。それは、私と同じ考えで日々、研修に励む先生、また、教え込みで教師の都合のいいように進める先生。こんなこと言って失礼かもしれないが、前者はごく少数。大半は後者である。

教え方は上手でも、授業に対する考え方が間違っていると思う。だから「古い」「新しい」のような議論になってしまう。

http://www.truth-teacher.com/entry/2017/06/25/123523

ところが、我が勤務する市。教員の平均年齢が50代である。つまり、私の見立てでいくと、ほとんどのクラスがまだまだ教え込みの教師主導の授業が行われており、このスタイルは、この世代の方々がご退職されるまで変わらないと思われる。


しかし、昨日の慰労会の二次会で教頭先生(50代)から興味深いお話を伺った。
それは、教頭先生がまだ教諭として指導していた頃のお話。仲間と実践してきたことを教えてくださった。それらの実践が本当に面白い。子どもたちの興味・関心を掻き立てるものばかりだった。
私なんかよりもっとアイデア性があってクリエイティブ感があって、思わずワクワクしてしまうものばかり。
この世代の先生方って我々なんかよりずっと楽しい授業をつくってこられた(方々がいた)のである。おそらく今よりすごい二極化だったのだろう。

しかし、なぜか私の見た限りでは、そのような50代の先生は見ない。教頭先生たちは特殊?化石?

いや、そうではない。そのような先生方は皆、管理職になられてしまっているという事実。なんだかもったいない。

そういう先生方の実践はもう見ることはできず、聞くことしかできない。そのような武勇伝が聞けるのも、飲み会の場くらいかと思うと、あまり好きではない飲み会も少しいい機会と捉えられるなと思った。


今日は午後は休み。ゆっくりと自宅でできる仕事をしよう。。。

交通安全の旗を振るおじさん

1学期終了!今日はこれから慰労会。

1学期終了については、朝記事にしたため、今回は全く別の話題。


朝、通勤していると、交差点で交通安全を呼びかけているおじさんがいる。毎日ではないが、定期的(?)にいる。今日はいた。まるで選挙の街頭演説をしているかのようである。「交通安全」と書いてある旗を持ち、大きく振りながら、何やら呼びかけている(車の中なので聞こえない)。


雰囲気からすると、誰かに頼まれてやっているようには見えず、全くの慈善活動のようである。みんなに交通安全を呼びかけたいとするそのおじさんの思いはとてもすばらしい。なかなかできるものではない。

しかし、


逆に危ない。運転中、気になって仕方がない。よく道路に「よそ見するな」という看板があるが、よそ見をしてしまう。
体いっぱいを使って、旗を振っているのだ。どうしても気になってしまう。


私はこのブログでもたびたび「目的」や「意図」の大切さを述べてきた。しかし、その「目的」や「意図」をもつだけではダメなんだなということを改めて感じた。もちろん「目的」や「意図」がないものは話にならない。でも、その「目的」や「意図」をしっかりと意識した上でそれを達成させるための「方法」を考えなければいけないのだと思う。
「目的・意図」と「方法」を別物にしてしまってはいけないのである。
このおじさんの「目的・意図」ははっきりしている。「事故のない社会をつくりたい」ということだろう。しかし、それを達成させるための「方法」が「目的・意図」とズレてしまっているのだと思う。


夏休みが始まる。2学期に向けて「目的・意図」をはっきりさせて、それに合う「方法」を考えていきたい。

1学期終了の日

今日で1学期が終わる。

昨年度からの持ち上がりだが、今年度に入ってからの変化も見られた。

それは、6年性になったからというのもある。慣れないリーダーとして、不器用ながら委員会や各種行事、縦割りなどで、様々なことを企画し、運営してきた。それがようやく当たり前のこととして動けるようになってきたかなと思う。

自分のことをまず後回しにし、学校全体のことを考えなければならない。そのため、活動の優先順位が変わったように思う。


忙しい毎日であるため、学級だけは憩いの場(ホットステーションとよんでいる)にしたいと思い、居心地の良いクラスにしたいと考えているのだが、その忙しさで見えるものが増えたり、見えるものが見えなくなったりで友達に対する不満も出てきたようだ。それは、思春期への成長とも捉えられる。
子どもたちにとっては、あまりない経験で自分の余裕のなさや稚拙さがあるため、うまく対処できないことも多かったようだ。

なかなかホットステーションにはなれなかった。それに加えて、昨日の記事にも載せたが、自分のクラスのことが見えず、動けずになり、ゴミが多くなったり、または当番の仕事が雑になったり忘れたりと、大きな課題が見られた。


2学期立て直しというか、もう一度どんな学級、そして学校にしていきたいのか共に考えていきたい。それを意識付けるための今日1日と明日から始まる夏休み。


どんな話をしようか迷う。。。

ゴミはゴミ箱に

教室の隅にゴミ箱がある。そのゴミ箱のそばにゴミが落ちている。ストローやティッシュのゴミは日常茶飯事。もしかして学校あるある?

教室のゴミ箱のそばの壁に「ゴミはゴミ箱に」という表示をつけている。でも、ゴミ箱のそばにゴミが落ちている。


これは意識の問題なのだろう。「ゴミはゴミ箱に捨てる」という意識もそうだが「『ゴミが教室に落ちている』ということに気付く」意識だと思う。

ゴミ箱のそばのゴミに限らず、教室内にもゴミは落ちている。でも、誰も拾わない。そもそも、その落ちているゴミに注目するという感覚がないのだ。
それは、学校内全体に言える。毎日掃除をしているからこそ、ゴミは少ないが「なぜ1日でこれほどのゴミが出るのか」というようなゴミの量だ。


ゴミが落ちていたときに

「ゴミ、落ちてるよ」

と声をかけて、

「私のじゃありません」

とはならない。そんなこと言えば、指導されたり、よく思われないということを子どもたちは知っているから。でも、おそらく、

「なんで拾わなきゃならないの?」

という思いはもっているのではないか。

先にも述べたが、子どもはゴミが落ちていても、それに意識がいかないのだ。
だからこそ「ゴミ、落ちてるよ」「分かりました」のやりとりをして拾わせるのではなく、ゴミが落ちていることに対する違和感に気付かせることが大切なのではないか。

私は、とりあえず、自分が拾うようにしている。教室内もこれ見よがしに私が掃き掃除を始める。給食台が汚い時は、メラミンスポンジでこれでもかというくらいピカピカにしてみる。


少し遠回りかもしれないが、まずは意識付けなのではないかと思う今日この頃。

発達性ディスレクシア

先日、ある本に出合った。それは「うちの子は字が書けない」という漫画。

うちの子は字が書けない (発達性読み書き障害の息子がいます)

うちの子は字が書けない (発達性読み書き障害の息子がいます)

「発達性ディスレクシア」のあるお子さんと、その家族の話。本人、家族が障害と向き合いながら、よりよい方向性を見出していくストーリー(こんなに簡単な話ではないが)。


この「発達性ディスレクシア」。40人学級に3人くらいの割合で存在するとのこと。よくよく考えてみると、確かに読み書きが苦手な子っている。漢字のテストをしても、かなり残念な点数の子。。。

そんな子に「自主学習でがんばってきな」などといってきた(もう少し言い方はキツイときもあるかも・・・)。でも、もしその子が「発達性ディスレクシア」たとしたら、その言葉かけはその子を苦しめるものでしかないのかもしれない。

でも、そうかどうかの判断は難しい。あくまでも「『発達性ディスレクシア』かもしれない」としかいえない。我々は診断してはいけない。また、この障害自体あまり知られているものではない。


しかも、その子が「発達性ディスレクシア」と分かったとしても、前に進むには大きなハードルがいくつもある。

まずは保護者の理解がないといけない。自分の子にそういうハンデがあるということを受け入れるのは相当の覚悟がいるであろう。この本の著者である母親は、自分の子がなかなか字が書けるようにならないことをずっと悩んでいた。ずっとお子さんと向き合ってきた。だからこそ、診断が出たときにホッとしたのかもしれない。
また、本人の思いもある。この本に登場する子は、自分から前に進みたいという思いを抱いていた。友達と違ったことをしなくてはならなくなったとしても、字を書けるようになりたいという強い思いをもっていた。なかなかそういうふうに思えるようになるのも難しいと思う。それは、やはり家族の支えや寄り添いがあったからこそなのではないだろうか。
そして、専門機関の存在である。この母親は専門的な話を聞く機会があり「もしかしたら」と思うことができた。また、その後も共にトレーニングを進めていける先生と出会えたことがとても大きい。


これらについては、もしかしたら「必要条件」なのかもしれない。
では、我々はそれらの条件が揃うのを待つしかないのだろうか?我々は診断もできない。分かったとしても治すこともできない。
でも、我々のできることも「十分条件」になり得るのではないか。ヒントは3つの条件にあると思う。これらの条件を成り立たせているのは、やはり「寄り添う」ということではないか。
できない子どもに寄り添ってあげる。これが我々にできる小さくも大きいことだと思う。できないからといって「叱らない」「見捨てない」ことが大事だと思う。
できるものにとって、できないものの気持ちはなかなか分からない。だからこそ、寄り添ってあげたいものだ。


そして、この「発達性ディスレクシア」という障害について、もっと広く取り上げられるようになるといいなと切に思う。