しがない教員の学校・学級・生活日誌

高いアンテナ・豊かな発想で生活を明るくするためのブログ

特別なことはいつか当たり前のことになる

今日、隣のクラスの子どもに、
「3組はいいなぁ」
と言われた。どうしてかそう思うのか理由を聞くと、
「だって、楽しいことばかりやっているじゃないですか」
との答えが。確かに、楽しいことはやっているつもりだ。それは、
◯子どもたちが「楽しい」と思えれば、主体性につながる

◯教師も「楽しい」と思えることをしなければ、子どもに楽しさは伝わらない

という考えからである。

昨年度は、2つ目の思いが強すぎたためか、楽しいだけで、学習内容の理解には繋がらなかったように思えている。今年度の課題はもっと「本質をつくこと」である。

それは、置いておいて。


隣のクラスの子どもの視点で、我がクラスを見ると、やはり「楽しそう」という風な見え方ができるようだ。少しその子どもと話をすると、私から見ると小さなことばかりでてくる。
例えば、
「『歴史にドキリ』を見ている」
「座席が楽しそう(今、座席の配置を変えている)」
「イベントがいっぱい(私のお遊び)」
「勉強ばかりじゃなさそう(それは失礼)」
などなど。
そんなに特別じゃなさそうなことを隣のクラスの子どもは求めているのかもしれない。


確かに、我がクラスの子どもたちも、5年生当初は、初めて経験する変わったことばかりだったようで、驚きとともに、イキイキする姿がたくさん見られたように感じられる。
しかし今では、子どもたちにとって私が何かすることが当たり前のことになっているようだ。
私が何かしようとすると、
「今度は何を始めるんですか?」
と、すぐに感づく。特に何もするつもりもないのに、このような期待を込めた質問をしてくる時がある。今日も、給食台の掃除をしようと「メラミンスポンジ」の袋を持ってきただけで、
「次は『これ(メラミンスポンジのこと)』ですね」
と、何かイベントを期待する勘違いをしていた。


一方で、隣のクラスの子どもが話していた「楽しいこと」は、クラスの子どもにとっては、当たり前のことになっており、例えば『歴史にドキリ』を見せても反応は普通だ(楽しそうに視聴しているし、楽しみにしているのは確かだが)。見るのが当たり前に思っている。

つまり、子どもたちが最初に特別だと感じていたことは、今では当たり前になっているのだ。


これまでやってきた「特別な(だった)こと」は、もはや「当たり前」であり、それでいて「もっと特別なこと」を求めているのである。
これは、かなり大きなプレッシャーだ。だんだんネタがないし、子どもたちの求める「特別感」もレベルが上がっているように感じている。


ただ、今年度の課題は「本質」。「特別」なことをやればいいっていうものではない。なんとか、子どもたちの力につながるような「特別なこと(私にとっては普通のこと)」を講じていきたい。