しがない教員の学校・学級・生活日誌

高いアンテナ・豊かな発想で生活を明るくするためのブログ

実践発表って?

今日は、市の研究会。先日は課題別の研修であったが、今回は教科等の研修。私は生活科・総合部会に所属している。

午前中は、1学期の実践報告。私は、綺麗事はいいたくなかったため、とにかく見えてきた課題を述べた。

しかし、先生方の報告、正直飽きてしまった。忙しい中、一生懸命まとめただろうから失礼と思いながらも時計ばかり気にしてしまった。

なぜか。それは、実践報告が文字通り「実践したことの報告」であったから。発表を聞くと、

「最初に〇〇をしました。次に〇〇をしました。すると、子どもが〇〇と言いました。そして次に〇〇しました。2学期は〇〇していこうと思っています。」

というものばかり。

「実践の報告」であるため、それで間違ってはいないのだが、それだけでは足りない。

教師側の話について

まず、見えてこないのは「教師の思いや願い」である。先生方が話していたのは「決まっていた」とか「〇〇をやることになっていた」とか「(目的や意図が語られず)〇〇をさせたかったから」などということである。

このような報告の場では(特に生活科や総合的な学習の時間では)「やってきたこと」というような「活動」ではなく「どうしてそれをやってきたのか」というような「背景や理由付け」が知りたいと思っている。だから、ただやってきたことだけ聞かされても「ふ〜ん」としかならないのが正直なところである。しかも、それを1学期分話すため、長いのだ。

子どもの実態や地域的な環境がそれぞれ違うため、聞く人にとって「活動の報告」は、まさしく「人ごと」であり、自分たちの学校の実態には合わない。そのため、聞いてもあまり参考にならない。
だからこそ「課題設定の切り口」や「仕掛け」などを聞きたいのである。

子ども側の話について

研究授業の事後研などでも、よく「子どもの姿で語りましょう」と言われる。これはどの教科等でも言われることであり、とても大切なこと。これは今日のような実践報告などにもいえると思う。

今日も子どもの姿が語られた。例えば「〇〇をしました」「〇〇するようになりました」「〇〇が△△に変わりました」などとである。しかし(特に)生活科や総合的な学習の時間での子どもの姿はそれだけではダメなのである。子どもがそのような姿を見せた「背景」や「経過」、その子への「教師のかかわりとその意図」がないと「ただ、〇〇をさせればよい」という議論に陥ってしまうのである。でも、本当は複雑な実態があるはずで、
「〇〇さんは△△だったけれど、それには□□という背景があって、だからこそ◇◇という活動を通すことで、▽▽という思いが強くなって、☆☆というような変容を見せた」
のようなものが一人一人あるはずなのである。

ここで語られる子どもの姿には必ず、教師のかかわりが見られるはず。それを語ってほしかった。

まとめ

なんのための研修なのか。もっというとなんのための実践報告なのか。「全員発表」となっているから仕方なく資料を作った感が否めない。だったら、長々と側的なものを語るのではなく、一言でもいいから「その先生の思い」を語ってほしいなと思った。

でも、午後の講演会はためになったからよしとしよう。