しがない教員の学校・学級・生活日誌

高いアンテナ・豊かな発想で生活を明るくするためのブログ

躾・・・・・

「ようやく、いうことが聞けるように躾けた」
「あのクラスは躾がなっていないから、いうことを聞けない」
「荒れてたクラスを引き継いだけれど、厳しくしつけて、まともな子たちになった」

等々。しばしば先生方から「躾」という言葉を使った武勇伝が聞かれる。その話を客観的に聞くと、どうやら「私は子どもに言うことを聞かせることができている」「私がもつと荒れたクラスでも立て直せる」「他の先生では躾けられない」ということが言いたいようだ。

そもそも「躾」というのは先生の役割なのだろうか?躾は家庭で行うものではないのか?この手の武勇伝を聞くといつもどこか違和感を感じずにはいられない。そういう人は「家庭で『躾』がなっていないから、私が躾けてやるしかない」というようなことも口にする。なんか、それも違うような・・・。


むしろ、学校では躾けずに子どもの思いを開放してあげながら、良い方向に導くことだと思う。「躾」をされたクラスは必ずと言っていいほど先生のいうことしか聞かない。自分(たち)で判断して動けない。その先生はやりやすいかもしれない。でも、それでは「その先生のためのクラス」になってしまう。子どもたちが自分の言うことを聞きさえすればいいと思っているのかもしれないが、子どもたちは決して楽しそうではない。いわば下僕。


今はそんな指導は時代遅れ。昔もダメだったとは思うが、今は社会の変化、文化の発達、子どものおかれている環境などいろいろな面から考えると「躾」なんてしたら子どもは表面的にしかついてこない。子どもたちを取り巻いているものは我々が子どもの頃とは違う。自分たちで情報を得る手段があり、また、いろいろなものやことが制限されており(制限されないと犯罪に巻き込まれる)、塾や習い事で余裕がない子どもが多い。我々が子どもたちの心に寄り添い、気持ちを理解してあげて、その上で一人一人に必要な指導や支援を考えてあげなければ、子どもたちは満たされないのだと思う。それは決して「躾」ではないと思う。ときには怒ることも必要だと思う。でも、子どもたちはそれを必要としているかどうかを考えないといけないと思うし、子どもたちに寄り添っているからこそ、怒っても伝わるのだと思う。