しがない教員の学校・学級・生活日誌

高いアンテナ・豊かな発想で生活を明るくするためのブログ

集団の中における自分を客観的に見てみる

そりゃ、たまには悪口だって陰口だって言うさ、人間だもの。

「(皮肉を込めて)○○先生って楽でいいよね」
「○○先生って何も仕事ないよね」
「○○先生には任せられないからね・・・」
「○○先生、来年も残るらしいよ」
「○○先生、『△△はできません(△には仕事内容が入る。例:高学年)』って、またゴネたみたいだよ」
※しばしば、「先生」という言葉は省略される

などといった言葉が交わされることがある。これだけを見ると「陰でこんなこと言うなんてひどい」と思われるかもしれない。しかし、実際に、仕事をしなかったりできなかったりするくせに、文句ばかり言う先生や、ゴネた仕事がこちらにしわ寄せとしてやってくると、悪口や陰口を言わないとやっていられなくなるのも事実。そういう先生が結構おり、中には明らかに問題を抱えている先生(いろいろな噂や申し合わせがあった先生)も数名いる。ある先生は、以前に勤めた学校で、コレクションしている軍服を数着教室に飾っていて校長に指導されたという人も。その人には何も仕事が当てられず、週4単位時間の授業しか割り当てがないという使えなさなのに、偉そうというはっきり言ってお荷物・・・。私が勤務する学校は大規模校。大規模校はそういう人を請け負わなければならないというような何かがあるのかと思うほどである。


今日、教務主任とそんな話をしていたのだが、そんな時ふと思うのだ。「自分もそういうふうに言われている(思われている)かもしれないよな」と。そんなに大勢はいないと思いながらも、合わない先生もいる。

この先生にとっては、私は「若造のくせに偉そうだ」と思われているのだろう。

でも、自分の中では、教務主任との仲が、この教師集団の中での自分の位置を確立してくれていると思っている。教務主任は、何かにつけて私を気にかけてくれる。何か情報があればすぐに教えてくれるし、いろいろなことに誘ってくれる。要するに信頼してもらっていると勝手にだが思っているのだ。

それは、お互いの関係性が「持ちつ持たれつ」になっているからだと思っている。私は、陸上の指導をこの先生に頼り、教務主任はコンピュータ関係や研究関係を私に頼ってくれる。お互いがお互いにプラスになることで、関係性が築かれる。だからこそ、集団で存在する意味をもたせるためには、集団のために動くかどうかが大切なのだ。

自分はまだまだ打算的だ。教務主任のためには手を貸したくなるが、残念な先生たちには正直貸したくない(手を貸すという表現がどうも偉そうだが)。でも、視点を「先生個人」に置くのではなく「集団や組織」に置くことで、自分が集団の中に存在する意味が確立するのだろうなと思った。