しがない教員の学校・学級・生活日誌

高いアンテナ・豊かな発想で生活を明るくするためのブログ

それぞれに抱えていることがある

昨日の学級懇談会のあと、ある保護者から「うちの子、ADHDといわれていて・・・」という相談があった。どうやら薬を飲むほどの重いものではなく、動きまわったり暴れたりすることはなくて、ちょっと集中力が続かないところがあるくらいらしい。
ADHDのお子さんは結構いて、今は前よりも医療機関に相談したり、検査を受けたりする保護者の方が増えてきたように思われる。


これまでも、緘黙ぎみのお子さんがいたり、四肢に若干の障害があったり、耳に難聴を抱えていたり、弱視ぎみだったり、運動制限があったり・・・。様々なハンデ(この表現がよいものかどうか分からないが・・・)を抱える子どもが少なからずいる。
身体機能の障害に限らず、気持ち面の不安感が強いお子さんだっており、拘りが強かったり、内気だったり、人間関係の構築が苦手だったり、はたまた吃音があったり、登校を渋りぎみだったり・・・。

最近では、それらを「個性」とすることもある。それは悪いことではなく「その子らしさ」の一つだったり「自分自身をつくりあげているもの」だったりとして捉えられることも多い。

「なるほどなぁ」という思いがある反面、そういう「個性」が自分や自分の子どもにあることをそう簡単に受け入れられないこともあるよなぁとも思う。実際、まだまだ困り感はあり、もしかすると、そのせいで他人にも迷惑がかかることだってあるかもしれない(すべての「個性」がそうではない)。そう考えると、抱えているものの大きさは「個性」で済ますことができない人だっているだろう。


私はこの12年、ほぼ毎月(最近では2ヶ月に1回になっている)眼科に通っている。最初のきっかけは忘れてしまったが、眼圧が高く、緑内障の疑いがあるため、毎日点眼をしなければならないのだ。最初に受けた視野検査では、視野が欠けているところがあった(この時は慣れていなかったこともあったようで、今では一応視野の欠けはない)。そのため、毎月受診し、眼圧の検査と視力検査を受け、点眼薬をもらい、年に1回視野検査をしている。

これも私の「個性」かもしれないが、毎月(2ヶ月に1回だが・・・)眼科にいくのは負担だし、視野が狭まってきたらどうしようという不安もある。


そう考えると、周りではいくらでも「個性」として受け入れることができても、当の本人やその家族としてはそう簡単に割り切れるものではないし、周りが受け入れていたとしても、それが自分自身の受け入れとは別なのだと思う。だって、周りの人たちが私に「大丈夫だよ」といってもなんの説得力もないし、例え「見えなくなったとしたら、私が目の代わりになってあげる」といってくれても、見えないことには変わりがないのだ。


ということは、周りの受け入れ方には限界があるとともに、本当にその人のためになるということは難しい。じゃあ我々にできることは何か、それは「受け入れる」だけではなく「寄り添う」ことなのかもしれない。その子をどうすることもできない。だから何をするでもない。その子に寄り添いながら、普通に接してあげることが、我々にできる一つのことなのかもしれない。