しがない教員の学校・学級・生活日誌

高いアンテナ・豊かな発想で生活を明るくするためのブログ

「全然やってないよ」の応酬〘「やっていない」の質が変わる〙

中学生くらいになるとよく見かける光景。

勉強ができる友達に対して、
「いっぱい勉強してるんでしょ?」
という質問と、
「全然やってないよ」
という答えのやりとり。

やっているかどうかは、その人の中での基準。勉強ができる子にとっての「やってない」は、その他の子にとっては「やっている」になることが多い。もしかしたらその子にとっては本当に「やっていない(つもり)」かもしれないため、噓ではないことも多い。でも勉強ができる子は、どこかでしっかりと覚えているのも事実。そう考えると「やっていない」ということ自体はウソなのかもしれないが。。。


私は学生の頃、不真面目に見えていたようだ。なので、私が「昨日は2時間も勉強した」と言っても、周りの友達は「お前が2時間もやるわけない」とか「噓ばっかり」などと言われていた。それはそれで頭に来るが。。。



それが大人の世界になると、まるで逆転するらしい。自分たちから「やってない合戦」や「やってない自慢」をしだすのだ。

研究授業の日が近い先生方が話していた。ある先生が、
「全然、授業の準備してないよ」
というと、もう一人の先生は、
「大丈夫。私なんかもっとやっていないから」
と返す。

いやいや、頼むからやってくれ

と言いたくなる。


その他にも、ある報告をしなければならず、催促をされた先生が、
「まとめるの忘れてた」
といえば、違う先生は、
「大丈夫、私も催促されたけど、まだやっていないから」
と返していた。


やれやれである。


おそらく、「やっていない」ということを、自分の逃げ道として利用するようになってしまうということだろう。しかも、同じような仲間がいればなおさら安心材料になってしまう。しまいには、普通にしている人が「真面目だなぁ」などと皮肉を言われるようにまでなってしまう。


どこかで気付いているはずだ。逃げ道などないということを。どこかでやらなければならないことを。

でも、気付いていないかもしれない。どこかで迷惑を被っている人がいるということを。


勉強は、自分判断で「やっていない」こともいいかもしれない(客観的にはやっていることが多いが)。

でも、仕事は、自分判断で「やっていない」のはダメだ。客観的にみて「やった」になっていないと怠慢になってしまう。

頼むからやってくれ。