しがない教員の学校・学級・生活日誌

高いアンテナ・豊かな発想で生活を明るくするためのブログ

「人任せ」で生きる人たち【印刷機の前に立って】

日々の授業から、学んだ気になっている子ども、理解した気になっている子どもが多いなぁと感じる。

どういうことかというと、教師の話や友達の考えを聞いたり、黒板を写したりすることで、学習したと勘違いしてしまっているのだ。つまり、友達の学びなのに、あたかも自分が学んだかのように思ってしまっているのだろう。

真面目に聞いているが、聞いているだけ。丁寧に黒板を写しているが、写しているだけ。そこに、自分の考えや思いが入っていないのだ。だから、表現力はもちろん、想像力も創造力も乏しく、本当に必要な生きる力が身に付いていかない。

「誰かが考えてくれる」「誰かが発表してくれる」「誰かがやってくれる」「誰かが・・・」といわば人任せの学びだ。


実はこれは子どもの学びに限らず、大人の世界にも蔓延る問題だ。大人の世界こそ「人任せ」の世界に思えてくる。


今日、プリントを印刷しようと印刷機の前に立つと、ディスプレイに「排版ボックスがいっぱいになりました 排版ボックスのマスターを捨ててください」との表示が。。。

誰かがそのままにして立ち去っていったのだろう。これは、排版ボックスだけではなく、「マスター交換」でもよくある。印刷しようとすると「マスターがなくなりました。」のようなメッセージが出たままの時がある。


最近の印刷機は、製版のあとに排版ボックスやマスターのメッセージがでる。つまり、それを処理しないと印刷ができないのだ。ということは、立ち去った人は製版だけして印刷せずに立ち去ったことになる。印刷をあきらめてまで、排版ボックスのマスターを捨てたり、マスターを交換したりしないのだ。

結局は、これも「私(つまり当事者)ではない『誰か』がやってくれる」という「人任せ」の考えだ。


「私ではない『誰か』」に期待し、嫌なことや面倒なこと、分からないことを「人任せ」にしてしまう。そういう大人って実は多い。

そして、大抵のことは確かに『誰か』がやってくれてしまう。

講演会では「誰かが前の方に座ってくれる」。研究会では「誰かが意見を述べてくれる」。問題に気付いたら「誰かがそれを言ってくれる」。研究授業では「誰かが授業者になってくれる」。なんでも『誰か』にやってもらっている人ばかりだ。


それがすぎると、だんだんできないことや分からないこと、そしてやらないことなどに対し、恥ずかしさを感じなくなり、逆に当然な感覚に陥るらしい。


今日も愚痴だ〜っ!