しがない教員の学校・学級・生活日誌

高いアンテナ・豊かな発想で生活を明るくするためのブログ

脚本がある研究授業

先日、ある人の学校の研究授業についての話を聞いた。

その人の学校は学年で単元や手立てを講じて、実践していくタイプの研究スタイルのようで(私の学校もほぼ同じなのだが)、先日研究授業を行ったとのこと。

なぜか、学年の先生みんなが同じ単元の同じ時間、そして同じ手立てで授業をするらしく、順番に研究授業をしていき、一人だけ代表でみんなに公開するようだ。

なぜ、同じ単元の同じ時間、同じ手立てなのかというと、どうやら授業案が一つだけでよく、しかも同じ授業をすればいいという、つまり楽をして終わらせたいという思いのようだ。

どこも先生方は廃れているのがよく分かる。


でも、その人は自分のクラスの子に合うような授業を考えたいということで、かなり教材研究を重ねていた。そして、他の先生方はその授業案のいいところだけすいとり、授業をしたという。


その授業は6年生の国語科の「書くこと」の単元。パンフレットを作るという学習だった。その人は、子どもたち自身に応じたパンフレットが作れればいいという思いでいた。もし、書けない子がいたら、その子に応じて手立てを講じようと考えていた。レベルの高いものを求めるのではなく、子どもたちが自分たちの経験や取材などをもとに、自分たちなりのパンフレットを作れるようにと考えていた。


しかし、その人の学年の他の人はそうではないらしい。研究授業で、書けない子が出るのは嫌だから、事前に下書きをしておいて、それを写させるというのだそうだ。しかも、書けない子には先生が下書きを書いておいて、それを写すように指示をしていたとのこと。

一見、子どもたちのためにそうしているように見えるかもしれないが、それは全くの逆で、100%先生自身のためである。つまり、子どもたちができていない姿を見せたくないということ。みんながパンフレットを書けていれば、「先生のクラスはみんなが書けていてすごいですね」と思われたく、また「先生のクラスは書けない子がいましたね」と思われたくないのだ。だから、脚本を書いて、その通りに子どもたちが動けるようにしないと安心できないのである。その証拠に、「研究授業じゃなければ、私も下書きを書かせたりはしないで、先生(その人)のようにやるんだけど、やっぱり人が来るからちゃんとした姿を見せたいから」と言っていたという。


でも、これは大きな墓穴を掘っているのに気付いていない。普通の人から見たら、みんなが書けていて書けない子がいないクラスなど、見ていて気持ち悪いとしか思えないのだ。誰が見ても、先生が書かせていたなと思われてしまう。それに気付いていないのはかなり呆れてしまう。そして、自分の体裁しか気にしていないため、子どもたちの実態は見取れていない。それがベテランであるためどうしょうもない。


じゃあ、そのベテランの先生の授業は結局どうなったか、脚本通りにいったのか、、、いくはずがない。全く書けず、先生が下書きを書いておいたという子は、それすら写そうとしなかったという。それはそうだ。だって、自分のパンフレットではなくて、先生のパンフレットなのだから、書きたいなどと思うはずがない。拙いものであっても、その子が書くパンフレットの方が何倍も何十倍も何百倍も美しい。


授業というのは、できる子ばかりの作られた授業を見ていてもおもしろくもなんともないし、すぐにバレる。できない子がいて、その子がどう学ぼうとしたのかを見るのが楽しい。結果、できなかったとしてもそれでいい。どうしてできなかったのか、じゃあその子にはどんな学びがあったのか考察した方が次につながる。


どうしてそれが分からないのか。分かってくれないのか。その人は何度も何度も、そのことについて話をしたという。でも、結局は聞いてもらえなかったらしい。

自分の「見てくれ」を気にして、自爆するという、なんともお粗末な人たち。どうしてそうなってしまうのか。管理職の人たち、ぜひともお声がけをしていただきたい。。。