しがない教員の学校・学級・生活日誌

高いアンテナ・豊かな発想で生活を明るくするためのブログ

「私についてくれば大丈夫」という違和感

先日、市の合唱コンクールがあった。


本県や本市では合唱や合奏の指導に対して命をかけるような傾向がある。

命をかける先生(いや、先生ではなく、ただ身分が「教諭」というだけで、実際には合唱(合奏)専門の「指導者」か?)は本当に仕事はそれだけしかやらないようになってしまう。今年は分からないが、去年はお盆にも娘の学校から歌声が聞こえてきた(家は学校の目の前)。娘の学校の合唱部は休日は当たり前のようにように練習しているのだが、その合唱専門の指導者は、他の合唱担当の先生たちに「私は練習するから(別に練習に来なくていいよ)」と言っているらしい。そんなこと言われても、若い先生なんかは練習に出ないわけにはいかないだろう。ピアノだってあるし。つまり、結局他の先生方を巻き込んで、週休日はもちろん、夏休みなどの長期休業日も無しにさせてしまうのだ。


そんな合唱命の娘の学校の合唱専門家もようやく異動した。そんなに合唱合唱合唱合唱言っていない学校への異動のようだ。

でも、もちろん、その学校でも「合唱団」をつくり上げるべく、合唱漬けの毎日をおくっているようだ。


そして、先日の合唱コンクール。その合唱専門家は、緊張している子どもたちにこんなことを話したという。

「私についてくれば大丈夫」

と。

合唱専門家の自分についてくれば、県大会はもちろん、全国大会にもいけますよ。という意味の自信満々のセリフだ。


でも、この「私についてくれば大丈夫」という言葉は、学校教育の教員としては、相応しくないと思う。つまり、この合唱専門家は、
「私の言うとおりにやりなさい。そうすれば間違いはないですよ。」
「私の言うとおりにやらなかったら、失敗しますよ」
ということを述べているのだ。

今は、子どもの「主体性」や子ども同士の「対話」を大切にするように言われている。
なのに、「私についてこい」って、腹を抱えて笑ってしまうぜ。

こういうプロの専門家には「働き方改革」などといっても効果はないだろうな。「多忙化解消」に向けて様々な指針が出されているが、専門家は「多忙」という感覚はないだろう。だって「合唱」しか仕事をしていないんだから。その人にとっては「働き方改革」の必要性はないのだ。


これから先もこういう専門家には、何をいっても分かることはないのだろう。だって、教員ではないのだから。。。