しがない教員の学校・学級・生活日誌

高いアンテナ・豊かな発想で生活を明るくするためのブログ

研究授業と、授業の意図、そして教員としての姿勢

今日は初任者による初任研の研究授業があった。国語科の研究授業。私の一番苦手とする教科。私自身の勉強にもなるなと思いながら参観させてもらった。


そこで感じたことや考えたことは、国語科についてだけではなく、やはりどの教科等にもいえることについてである。それだけ最近は、私自身が授業の在り方そのものについて考えたり悩んだりしているんだなということが分かる。


ここで、考えたことを一つに絞り、そこから感じる初任者の仕事の在り方について感じたことを述べたいと思う。


まず、授業で感じたことは教師の意図が薄いと子どもたちは何をしたらよいか分からないし、教師の意図が強いとシナリオのある教師主導の授業になってしまうということである。

いや、教師の意図が強いことが悪いのではなく、強く出ることがいけないのだと思う。

今日の初任者の授業では、その両方が見られたと思った。

「何のためにその活動をさせるのか」「何のための導入なのか」「なぜにグループなのか」「どうしてこのワークシートなのか」という内容の面とそして「何を身につけさせたいのか」「何を考えさせたいのか」といったねらいの面等々、初任者の先生の意図が曖昧であったため、子どもたちは何をしたらよいのか分からなかったようだ。ワークシートにまったく書けない子(書かない子?)、何を書いたらよいか分からずに何となく書いている子や待っている子、ズレていそうな子等々。ある意味多様な姿が見られた。でも、この多様性はあまりよい多様性ではないと思う。


逆に、そんな姿が見られたものだから、先生も焦ってか「例えばこういうことを書くんだよ」などと、書いてほしいことを言ってしまったり、「じゃあ◯◯さん言ってみて」と教師の意図することを書いた子だけに発表させてしまったり。そのせいで多様性をだせなくしたり、見られるであろう多様性を潰したりしてしまったように思われる。


意図が見えない、また意図を出し過ぎる原因、それは、教師の姿勢に現れると思う。

授業に臨む姿勢、もっといえば働くということへの姿勢が甘いんだよなぁ、と思ってしまう。


研修に対しても、どうしても、「研究授業をこなす」というイメージがあるようだ。事前に授業案を見せてもらい(といっても一昨日の夕方)授業の相談を受けたため、授業案上、気付いたことや意図していることに対して私が気になったこと(ほぼ先生の意図の面)を話したのだが、何一つ直っていなかった。

だったら見せてくるな、と思ってしまう。大学附属の学校や研究校にでも赴任しない限り、1年でこんなに授業研究をすることはないのではないか?それだけ教師としての学びの機会を与えられているということ。

そのせっかくの機会を無駄にしてほしくないなと強く思う。初任者なりにがんばっているのは分からなくもないが、まだまだ自分都合ばかりで働いているように見える。


それは、働き方の姿勢にも現れる。もう少し、社会人、教育者としての自覚と責任をもってほしいものだ。


まずは、早く出勤していろいろな先生の姿や学校の様子、子どもの姿などを見ようとしなさい。学年合同の授業の時は、率先して準備に動きなさい。人に何かをお願いするときは、早めにしなさい。とにかく、いっぱいいっぱい動きなさい。

と感じてしまった。



パワハラか?私はできているのか?

大いに反省したい。。。