しがない教員の学校・学級・生活日誌

高いアンテナ・豊かな発想で生活を明るくするためのブログ

「自分ではできないけれど、なんとかしてほしい」という考え方

困り感がない人なんていないだろう。それは、大人でも子どもでも。私だって意識すれば困り感だらけかもしれない。「なぜ、自分ばかり出張が多いのか」「何でも押し付けられても困る」「そんなに期待しないでくれ」・・・・・言い出したらきりがない。

普段はそういう困り感は無意識的だ。だからなんとなしに、さも当たり前のごとく取り組んだり、生活したりしている。

でも、それが意識的になった途端、愚痴になったり、反抗したり、失敗したり・・・、つまり問題が表面化してしまう。その問題についても無意識な人は多いのだが。簡単にいうと、自分の置かれている環境に対して意識的になる人ほど、悩みが多くなるように感じる。そして、その悩みを外に出せない人ほど、その問題は大きくなり、ついには後戻りできないくらい深刻になっていく。


それは子どもの世界でも同じ。毎日の生活の中で、子どもたちは様々なものごととかかわっていく。それは「ひと」だったり「もの」だったり「こと」だったり。それらとのかかわりの中で、気持ちの上で嫌な経験をすることもある。それは、学業の面かもしれないし、友達関係かもしれないし、家庭での問題かもしれないし。。。毎日のかかわりの中で、誰しもが困り感を感じているのが正常だろう。


ここで考えさせられることは、その困り感を子ども自身どう対処するかである。

例えば友達関係での困り感。

その困り感をストレートに友達に伝えられる子どもは、自分で困り感を小さくできる子どもだといえるかもしれない。もっといえば、そもそも困り感を感じる前に自分で対処してしまえるのかもしれない。


でも、みんながみんなそんなことできるはずもなく、自分で対処できる子どもは一部。


じゃあそうではない子はどうするのか。



例えば、一つは先生や親に言って困り感を伝えることが挙げられる。

その伝え方もそれぞれであり、「◯◯君が嫌がらせをしてくるので困っています」かもしれないし、「◯◯君が嫌がらせをしてくるので怒ってください」かもしれないし、先日のように「◯◯君が嫌がらせをしてくるので席替えをしてください」かもしれない。

そうすれば、先生や親はなんとかしてくれるかもしれない。でも、それでその困り感が解消されるかは別だ。それは、困り感はその子のもつ心の悩みであることが多いからである。

先生が嫌がらせをしてくる子を怒ったり、席替えをしたりすれば解決するのかということだ。つまりは困り感の本質が解消しているかどうかは別問題だ。例えば、嫌がらせをしてくる子が先生に怒られたとして、それで困り感が解消されたとしたら、その子の闇が露呈されるだけで、何も解決しないのではないか?席替えだって同じだ。


一つ目のように、自ら先生や親に言えない子どももいる。そういう子は我慢してしまうのだろう。そして我慢できないくらい困り感が大きくなると、表に出る行動も大きくなる。

例えば、不登校や反社会的な行動に出ることなど。。。

当たり前だが、何もしなくては解決することなどない。



難しいのは、先生や親に言えても、言えなくても、その子自身が「何に困っていて」「どうなることが最善で」「そのためにはどうすることが必要か」行動に起こせないとしてもそれを認識していなければ、解決しないということだ。

「自分では何も考えることができないけれど、とにかく周りの人がこの状況をなんとかしてほしい(もしくはなんとかしてくれる)」と考えていては結局、本質的に解決しないのである。


なんか、そんな子どもが多いよなぁと感じるのである。でもそれは、我々大人だって同じだ。大人が自分たちで自分たちの困り感に向き合わないのだから、子どもだって、向き合うはずもないし、それに向かっていく術なんて知るはずもない。


その辺りが、大きな課題だよなと感じる今日この頃だ。