しがない教員の学校・学級・生活日誌

高いアンテナ・豊かな発想で生活を明るくするためのブログ

「見守る」という手立てがあってもいい

最近、授業における手立てとして「見守る」というのがあってもいいのではないかと思う。

教員としては、できていない(悩んでいる、解けずにいる、時間がかかっている、など)子どもがいると、どうしても手を差し伸べたくなるようだ。特に研究授業の時などは尚更に。

でも、その手は余計なお世話になる時もある。

もしかしたら、悩んでいる背景には、自分で考えたいという粘り強さがあるのかもしれない。
もしかしたら、もうすぐ解けそうなのかもしれない。
もしかしたら、時間がかかるだけで本当は分かっているのかもしれない。

そういうことが大いにしてあり得る。それを我々が勘違いして(もしくは見栄をはって)、勝手に手を貸しているだけであることも多いだろう。そして、「分からない子にもちゃんと支援をしていますよ」などと胸を張っている先生もいるだろう。


本当に手を貸さなきゃならないのか、待って見守るべきなのか、ちゃんと見取った上で直接的な支援を講じるべきだと思うのだ。



それは、教員の中でも言えると思う。

私は学校ではまだまだ若手の部類だが(年齢的には中堅だと思うのだが、如何せんベテランがたくさんいる)、毎年のように初任の先生もくるため、私より若手の先生もいる。

今年は2年目の先生が陸上部の主任をやっている。私は去年まで主任だったのだが、いろいろと抱え過ぎなところもあり、陸上部の主任については2年目の先生に渡った。陸上部の練習には主任(2年目の先生)と3年目の先生、教務主任、そして私がでている。他の先生は何故か何もしない。

はじめは、一緒にやらなくちゃという思いから、結構練習の指導に入っていっていた。しかし、最近では、練習にはでるが、練習方法や練習の流れなどについては任せることにした。そもそも私は陸上専門でもないし、ただ陸上部の担当の経験があるというだけであるから。

私が指導から手を引くのは一番は、2年目の先生が頼りのある指導ができるようになったからである。2年目の先生も3年目の先生も本当に頼もしい。私の出る幕ではない。

でも、それだけではなくて、やっぱり任せてみるということが大切なのではないかと思ったからでもある。その上で、(偉そうにも)見守る側になった方が、若い先生が伸びていくのではないかと思うのだ。


これが正しいのであれば、「見守る」ということはとても大きなことだと思う。子ども一人一人(若手の先生にも当てはまると思う)の可能性を発見し、その可能性を信じてあげることで大きく成長するのではないか?それが主体的な学びにもつながると思う。