しがない教員の学校・学級・生活日誌

高いアンテナ・豊かな発想で生活を明るくするためのブログ

「主張する」ということ

今日、勤務する小学校がある地区の健全育成に関する催しがあった。その中で「少年の主張」的なことが行われた。小学生と中学生が自分の考えていることを主張するのだ。

そこに、クラスの子どもが出場するということで、私も顔を出した。

こういうことも学校に依頼が来るため、作文指導に、発表指導などをやらなければならない。こういうところだけを見ても、やはり高学年の先生は負担がある。だからこそ、高学年の先生は校務分掌を少なくすべきだと思うのだが、前にも記事にしたが、残念な先生ややる気のない先生は低・中学年にあてられてしまうため、必然と高学年の先生に負担が集中してしまう。

まぁ、今回は私は出張だらけで学校にいないことも多く(言い訳)、発表指導をすることができなかったのだが。。。


今日の子どもたちの「主張」を聞いて感じたことがあるため、それを記事にしてみる。


それは、

「主張する」

とはなんなのかということ。


私のクラスの子どもはそれとなく無難に発表し終えた。原稿を見ながらも、すべて「読む」という訳でもなく、聞いている人たちを意識しながら主張することができたのではないかと思う。まぁ、声のトーンや強弱に軽重など、自分が強く伝えたいことにより意識するような発表にするには難しかったと思うが。でも、正直「やらされている感」があるだろうから、そこは仕方がない。なので、本当によく頑張ってくれたと心から思う。


発表者の中に、気になる子がいた。

それは、発表する際に身振りや手振り、表情などのアクションを交えながら発表してる子どもの姿である。

そのアクションが、どう見てもわざとらしいのだ。

「感謝」について話す際は、両手をクロスさせて胸に当て首を傾けながら言葉を発したり、「努力」について話す際は、両手をグーにして肘を曲げて「よしっ!」みたいにしたり。

一見、とてもすばらしい発表に見えるが、心が廃れている私にしてみると、正直やりすぎかなぁと思ってしまった。

主張する際に、身振りや手振りが出るのは自然だ。でも、それはつくられたものではなく、あくまで「自然」にでるものだと思う。それを原稿に合わせて身振りや手振りをつけてしまうと、それは「演じる」ということになってしまい、「伝えたい」ことは伝わらず、むしろ「演じている姿」しか印象に残らなくなってしまうのではないか。


それに、冷静に見ると正直ちょっと気持ち悪い。。。その子自身は一生懸命練習したり発表したりした。それは事実。とてもすばらしい。でも、それをやらせてしまうことに些かの疑問を感じてしまう。おそらくお家の人と練習したのだろう。でも、違和感を感じてしまった。


「主張する」ということは、いい姿を「見てもらう」ものではない。ましてや「すごいと思ってもらう」ものではない。たとえたどたどしくとも、言葉が詰まっても、言葉が拙くても、伝えたいことを「聞いてもらう」ことだと思う。そして、自分が伝えたいことに関して「考えてもらう」ものだと思う。


まぁ、こういうのは感じる人によって違うものだろう。私以外は「すばらしい」と思ったかもしれない。