しがない教員の学校・学級・生活日誌

高いアンテナ・豊かな発想で生活を明るくするためのブログ

自分の周りに全体があるのではなく、全体があって自分がある

自分のことにいっぱいいっぱいになっているときは、周りに目がいかないことが多い。

でも、そういうときこそ、自己を客観視したい。

しかしながら、自分のことにしか気が向いていないため、なかなかできないのが実際のところ。


ただ、自分以外の他者の存在に気付くかどうかということだけなのだが。


他者に目がいかず、ずっと自分のことにしか目がいかない人は、「自分が周りに支えられていること」や「自分以外の人が動いてくれていること」などに気付かないのだ。

得てして、出来上がっている舞台で、自分のことをしているだけの場合が多い。


学校の仕事でいえば、学年体育があれば早く校庭や体育館にいって準備をしてくれる先生がいるし、学年で進める行事があれば計画を立ててくれる先生がいる。学年の制作物があれば、物を用意してくれていたり、手順を考えてくれていたり。会議があれば要項を帳合してくれる人がいる。PTAの総会など大きな行事があるときは、体育館に椅子を並べてくれる人がいる。


そういうことに気付かなければ、いつまでたってもお膳立てされたところでしか仕事ができない人になってしまう。

つまりは、「全体があってこその自分」という意識にならないといけないということだ。気配りができない人は、無意識に自分が中心という感覚が染み付いており、周りの人の存在や功績に気付かない。だから、結果的に「やってもらって当然」のようになってしまい、もし周りが様々な準備や助言、手助けなどをしてくれないとしたら、そのまま失敗の道を歩んでいくのだ。


周りに目がいかないままに年数が経ってしまうと、自分にいっぱいいっぱいになっていなかったとしても、周りのお膳立てが必要な人のままである。自分が組織の構成者の一人という感覚にはならず、自分の周りに組織があるだけだ。


だからこそ、意識しなければならないといっているんだ。


間違いがあっても、自分のペースでしか直せない。間違えている資料を直して、もう一度校長先生に職印をいただかなければならないのに、校長先生の出張の予定も気にせず、もらいにいかない。その職印をいただいた資料を午前中の内に私の手元に必要なのに、一向に動かない。「校長先生が出張にいっちゃうから早くして」と声をかけても、「分かりました。やっておきます」といい、動かない。なぜか私が、出発直前の校長先生の足を止め、待ってくださいとお願いしている。その後、また声をかけにいく。


さて、いったい誰の話でしょう。。。


結局は彼への愚痴だったという記事だった。

今年は怒らないが、怒らないからこそ、私はいろいろな覚悟をしなければならない。おそらく、彼のミスは私のミスなのだ。私はたぶん彼の周りを動いている、ただの駒なのだろう。。。

来年度は組みたくない。。。