新米教頭の学校・職員室・生活日誌

高いアンテナ・豊かな発想で生活を明るくするためのブログ

目的や意図の裏にある「根拠」

先日、現職教育の会議があった。

新しい学校の今年度の現職教育。非常に難しい。

教科領域は「生活科」「総合的な学習の時間」が中心となるのだが、大きなテーマが、ある機関及び教育委員会から指定されている。そのテーマの縛りがかなり大きいのだ。しかも、今年度は秋に研究公開をしなければならない。

子どもたちとともに創りあげている楽しさがある「生活科」「総合的な学習の時間」なのだが、その「縛り」によって、「やらされている感」を増幅されてしまっている感じになっている。

先生たちも「なぜ、◯◯(指定されているテーマに関すること)をやらなければならないのだ?」という疑問をもっており、どうしても消極的になっている感が否めない。

そうなってくると、苦しくなるのが研修主任だ。私も昨年度まで研修主任をしていたからよく分かるが、研修主任任せになってしまうのだ。なかなか先生方の協力が得られないことも多い。

孤独な研修主任は苦しいのだ。

ただ私の時は、それでも私の好きなように進めることがてきたが、今年度はテーマの縛りがあることで、先生方の協力が絶対的に必要なのだ。

だからこそ、先生方にもしっかりと考えてもらいたいなと思っている。
この立場にたつことで、それが「指導」という形で指示することができるようになった。
だから少し厳しく話してしまったが、先日はそんなことを伝えた。

しかし、先生方は「何をどうしたらよいのか」がまだ明確でないのだ。テーマの「縛り」があるからこそ、先生方が「目的」や「意図」を見い出しづらくなっているような気になる。

そうなると、「子ども任せ」が生まれてしまいがちだ。「子どもたちの思いを尊重して」というキレイ事を掲げ、「子どもたちがこれをやりたいと言っていた(アンケートに書いていた)から」といって、学年のテーマを設定してしまっている。

そこには先生のねらいも、求める子どもの姿も、身に付けさせたい資質や能力もないまま、授業が進められてしまうのである。


私はこれまで記事でも、「目的」や「意図」の大切さを語ってきた。過去記事で「目的」とか「意図」と検索すると、たくさんでてくる。

しかし、その「目的」と「意図」を明確にすることは思いの外難しい。

例えば、学年のテーマを設定する際に「子どもの思いを大切にする」という「意図」をもっていると先生の中で思っていたとしても、それは「意図」とはいえないだろう。それは「意図」というより、「漠然とした先生の思い」でしかない。なぜそうなるのかというと、先生にとって「目的」や「意図」となる明確な裏付けとなる「根拠」がないからである。

我々にとっての明確な「根拠」とは、もちろん「学習指導要領」だ。

もう一度(もしかしたら初めて?)、「生活科」や「総合的な学習の時間」の指導要領を読んでみて、そこでねらっていることや、大切にしていくことを確認してみてほしい。


今の私は、直接子どもたちと授業創りあげることができない。できることは、先生方と子どもたちの学びを見守ることと、先生方へのアドバイスと時の指導だ。

自分で授業をすることの方がずっと楽だったかもしれない。