新米教頭の学校・職員室・生活日誌

高いアンテナ・豊かな発想で生活を明るくするためのブログ

混ざれないし、混ぜてもらえない

名前で呼ばれず、役職で呼ばれるのにも段々と慣れ、1日の流れもつかめてきた。

だからこそ、ふとした時に思い伏せる淋しさ。

学校に割と大きな畑がある。各学年で野菜を育て、のちのち食べるという活動がある(らしい)。結構大きな畑であるため、うねたり、マルチをかけたりするのが結構大変で、担任が協力して行わなければならない。

今日、畑の担当が担当に声をかけ、放課後に作業をしていた。

去年まではそのような作業の仲間に入れていたが、今はいろいろな意味で混ざることがてきない。

職員室で留守番したり、来客対応したりしなければならず、行きたくても職員室から出られない。

また、おそらく、その場に行ったとしても、立場として混ぜてもらえないだろう。


そんなとき、一抹の淋しさを感じてしまう。

以前も記事にしたが、一体感を味わえないのだ。

そう考えると、「一体感」と「連帯感」の違いがあるように思える。「私は留守番、みんなは畑」というように、それぞれに必要な動きをすることで、組織として「連帯感」を生み出しているかもしれないが、私にとって「一体感」を感じることができない。

このギャップはどうしょうもないものなのか。やっぱりちょっと淋しい。