新米教頭の学校・職員室・生活日誌

高いアンテナ・豊かな発想で生活を明るくするためのブログ

子どもの気持ちを味わう

娘が学校の宿題に対し、文句をいっているらしい。

もともとやる気のない性格の娘なので、そもそもなのだが、どうやら漢字の宿題が特に嫌だとのこと。


どんな宿題かというと、新出漢字を書く際に、決まった熟語や言葉を一つ書いたら、あとは同じ漢字を何度も書かせられるという。

例えば、「完」という漢字だとしたら、

完成 完完完完完完完・・・

のように。。。

以前、このやり方に対してあまり意味を見出さなかったため、自分で熟語や言葉を考えて書いたらどうだと、やらせてみたのだが、

例えば、

完成 未完 完ぺき 完りょう (などのように・・・)

それを見た担任からは「それはダメだ、先生が言ったようにやりなさい」

と、言われたとのこと。

なぜダメなのかというと、間違ってやるかもしれないからだという。



合理的配慮という言葉がある。簡単にいうと、障害をかかえる子どもたちに対し、必要な支援を講じることだが、インクルーシブ教育にはこの配慮は欠かせないだろう。

例えば、ディスレクシアの子どもにとって、上記に挙げた宿題は、負担になるだろうから、何らかの配慮が必要になる。


合理的配慮とは違うかもしれないが、じゃあ漢字が書ける子どもにとっては、上記の宿題はどうなのだろうか。分かっている漢字をたくさん書かせられる。これに意味があるのか。


ということで、子どもの気持ちを味わうために、そのような宿題の方法で、漢字の練習をしてみた。

すると、同じ漢字を書く際は、はっきりいって「無」の感情だった。「めんどくさいからとにかく書く」という感じ。

これは、子どもにとっても同じなのではないか。


担任のいう、「間違って書く」子どもに対しては、担任の方法をとればいい。でも、書ける子どもにとっては、その子どもなりの宿題の取り組み方でよいと思うし、書けない子どもにとっては、もっと違った配慮をしたらいいだけである。


家庭学習を考えるとき、「全員が同じことをやらなければならない」という考え方は、自己マネジメントの点で全く逆行するものだと思う。その子どもが、必要なことを必要な方法で取り組めるようにしていくことが、これから大切にしなければならない家庭学習である。

「主体的・対話的で深い学び」。文字づらを見ただけで、画一的な学習がまったく相反することだということが分かる。


確かに、同じことをやらせることも必要だろうし、画一的な学習も時には効果があるかもしれない。


でもやはり、考えなければならないことは、社会背景と目的や意義、意図であり、それらには自分自身の独りよがりの感情ではなく、明らかな根拠が必要なのだ。


まだまだ「主体的・対話的で深い学び」には程遠いなぁと思ってしまう。