新米教頭の学校・職員室・生活日誌

高いアンテナ・豊かな発想で生活を明るくするためのブログ

子どもにとっての「その時」は一度だけ

ある学年の子どもたちが楽しそうに野菜の収穫をしていた。「大きい茄子が採れた」と大声ではしゃいでいる子どもたちとともに、担任の先生も一緒になってはしゃいでいた。

この先生は去年も同じ学年。つまり、去年も同じようなことをしていた。去年も同じように茄子を収穫し、同じように子どもたちとはしゃいでいたのだろう。私は思わず「去年も同じことをしたんじゃないの?」「同じことをしてるのに、あんなにはしゃいでいてすごいね」と声をかけてしまった。すると、その先生は「こういう活動って何回やっても楽しいですよね」と返してきた。

こういう考えってステキだよなぁと素直に思う。こんな先生が担任である子どもたちは幸せだろう。いつでも子ども目線。

この先生の発言からは、子ども目線も無意識だろう。天然だ。ただ単に子どもたちと一緒に楽しんでいる。だから、子どもたちもついてくる。逆にいうと、子どもたちは運がよかった。天然だからこそ、双方が楽しめる。


私は6年生を5回やった。確かに、その時その時の子どもたちに集団としての個性はあったし、それなりにその個性を楽しんできたが、私はどこか「同じようなことをしている」「同じようなことをすればよい」といった考えをもっていたように思える。いわば打算。「去年はこうだったから、今年もこうすればよい」ということが多々あっただろう。


なぜ、こんなことを書いているのか。私は6年生を5回やった。同じことを5回やっている。先に挙げた先生も、その学年は2回目。でも、私は5回やっていても、その先生が2回やっていても、子どもにとっては1回なのだ。子どもにとっての「その時」は一度しかない。

先生にとって野菜の収穫が2回目でも、目の前の子どもにとっては初めてだ。究極は卒業式。先生方にとっては毎年経験する卒業式でも、子どもたちは1回なのだ。


そう考えたとき、その時その時を教師がどう取り組むかである。子ども目線になってその時を共有するってすばらしいと思う。目の前の子どもや集団によって、反応も感覚も得るものもすべて違う。

教師が自分の経験を生かすことは大切だが、経験の中だけですべてを進めてしまうのは間違っている。子どもたちに合わせた、必要に応じたものをその都度考えて、その楽しさや面白さなどを味わっていきたいものである。