新米教頭の学校・職員室・生活日誌

高いアンテナ・豊かな発想で生活を明るくするためのブログ

集団性【当たり前になる怖さと頼もしさ】

先日のこと。詳しく書くことはできないが、学校外のことで、あるテストに関わった。テストの様子を見ていたのだが、そのテストではカンニングが当たり前のように行なわれていた。「分からないからカンニングする」「自分の答えに自信がないからカンニングする」「なんとなくキョロキョロしたくてカンニングする」等々。どうやらカンニングする状況も様々である。



今週末には学習発表会がある。本番(本番といういい方はあまり好きではないが。毎回の練習も子どもにとっては大きな学びであるため、本番というより発表会なのだが・・・)に向けて、大詰めだ。発表会当日を迎える前に、管理職にリハーサル(このいい方も好きではないが)を見てもらうのが、慣例のようだ。

そのリハーサルを見て、驚くことがある。どの学年も(まだすべての学年を見てはいないが)、声が大きく出ているのだ。どの子どももだ。声が出なくなってくる高学年でも、普段あまり発表しない子どももみんな大きな声で発表することができているのだ。

それは何故か?

もしかすると、それが集団性なのではないかと思う。勤務校の子どもにとっては、「声を出す」ということが当たり前なのかもしれない。集団としてそれが当たり前になると、声を出さないことが逆に恥ずかしいことになる。声を出さない子どもがいないため、声を出さないと、逆に目立ってしまうことになる。

大体の学校は、声を出さない子どもが一定数いるため、声を出さなくても目立たない。だとしたら恥ずかしがり屋の子どもや、思春期に入る高学年になると、より一層声を出さなくなり、声を出す方が逆に恥ずかしいようになってしまうのだ。つまりは、「声を出さない」ことが集団として当たり前になってしまっているのである。



冒頭のカンニングについても、集団性として見ることができるかもしれない。

テストを受けた人たちは、ずっと一緒の環境で生きてきた人たちである。共に日々を過ごしていく中で、少しずつ少しずつ、集団として様々な文化が自然と創りあげられる。それは、無意識かつ常習性的になっていく。だから、カンニングについてもまったく悪気はなく、その集団にとっては、極々当たり前で、無意識に行なわれているのだ。


このように、集団性は、組織や団体としてプラスに働くこともあるが、逆にマイナスに働いてしまうことにもなる。それが無意識であるため、指導者としては意識していないと、手遅れになってしまうこともある。そのような集団性が高学年になったとき、プラスに働けばとても頼もしいし、マイナスに働けばとても怖い。そして、高学年ではもはや出来上がっていることがほとんどだ。

だからこそ、低学年から、むしろ就学前からより多くの目で集団を見ていく必要があるなと感じる。