新米教頭の学校・職員室・生活日誌

高いアンテナ・豊かな発想で生活を明るくするためのブログ

「・・・今のはメラゾーマではない・・・」「メラだ・・・」

『ダイの大冒険』での大魔王バーンの名言。

「・・・今のはメラゾーマではない・・・」「メラだ・・・」

である。大魔王バーンが出した火の粉。ポップはそれを見て「メラゾーマだ」という。しかし、大魔王バーンにとっては、それは「メラ」なのだ。

ゲームにおいては、「メラ」は誰が唱えても「メラ」でしかなく、「メラゾーマ」は「メラゾーマ」だ。つまり、呪文を唱えた者が勇者であろうと魔法使いであろうとモンスターだろうと、関係ないし、強さもレベルも関係ない。一定のダメージを与える呪文でしかない。


でも、この『ダイの大冒険』でのこの一節で見方が変わった。
その人がもつ潜在能力によって、発揮される力は変わるということだ。



私は仕事をする上で、意識していることがある。それは、「偏差値49ぐらいの力で仕事をしよう」ということだ。


とりあえず、及第点でいい。あまり力を入れすぎずに自分なりに余裕をもって仕事をしたいという考え方だ。


でも、何人かの先生方は、
「教頭先生の偏差値49は、私にとっての偏差値70ですよ」と私を上げてくれる。お世辞だとは分かるが、一つの考え方としては、大魔王バーンの「・・・今のはメラゾーマではない・・・」「メラだ・・・」と関係していると思うのである。


ある人にとっては「メラ」の力でも、他のある人にとっては「メラゾーマ」くらいの力であることもあり得るのだ。

その人の能力の基準は、その人にしかなく、他の人と比べると、その認識や捉えにズレが生じてしまうのだ。だから、「すぐにできるよ」などと自分の尺度でアドバイスしても、その人にとっては「時間がかかる」こともある。逆に、「これは大変だからみんなで話し合ってやろう」と提案しても、その人にとっては「ちょちょいのちょい」だとしたら、みんなでやることが無駄になる。


何が言いたいか。自分の力を客観的に捉えること、そして、他人の力も自分の尺度を入れずに客観的に捉えることが大切なのかもしれないなということだ。


これは、子どもを見る目にも生きてくる。

「できて当たり前」は自分の尺度。「1年生には無理だ」も自分の尺度。「6年生らしく」だって自分の尺度だ。でも、そこに客観的な根拠が入れば、その子にとって「メラ」なのか「メラゾーマ」なのかも見えてくるのではないだろうか。