クラスでは、帰りの会に今日あったことを五文にまとめ、スピーチをすることにしている(通称5丸スピーチ)。原則的にはくじ引きで話す人を決めている。
しかし、宿題忘れがいた時には、その子どもに「スピーチの権利」を与え、スピーチをするようにしている(罰という感覚がどうしても抵抗があり、こういう感じになっている)。
しかし、結局子どもたちにとってはただの罰でしかない。その結果どういうことになっていくか、まとめてみる。
罰を与えると、罰を回避することが目的になる
1日の間に、宿題について様々な質問がでてくる。
「帰りの会までにやれば忘れにならないんですか?」
「答えが間違っていたらスピーチですか?」
「2行だけだと忘れになるんですか?」
「(友達のノートを見て)こんなに隙間があっていいんですか?」
「昨日宿題ができなかったので、親に書いてもらってきました(保護者が『昨日は、きょうの一日が書けませんでした』と連絡ノートに書いてくる。つまり『宿題忘れにしないでください』ということ)」
「文字が大きくてもいいんですか?」
「親の判子がなくてもいいんですか?」
「(友達の自主学習ノートを見て)自主学習ってこれしかやってなくてもいいんですか?」
等々。いいかげん答えるのもめんどくさくなる。
この子どもたちの質問(報告)について詳しく考えてみると、それぞれの質問(報告)の後に、
「スピーチしなくてもいいですか?」
が隠れているのが分かる。スピーチをしたくないから、
「家で宿題をやる」
「大きな文字でやって、宿題をやったことにする」
「隙間をつくって、ページを埋めたことにする」
「家でやらなかったから、帰りの会までに学校でやる」
「家の人に一筆書いてもらう」
「自分でサインする」
という、手段が生まれてくる。「家で宿題をやる」は一見良さそうだが、このタイプも2つに分かれる。「罰を避けるためかそうでないか」である。
つまり、罰を与えると、子どもたちの目的が本質からズレ「その罰を回避するために行う」というものにすり替わってしまうのだ。
そうなると「とりあえず、やればいい」になってしまう。
もちろん、そうでない子どもの方が多いが、そうでない子どもが多くなってきたからこそ、宿題ができない子どもにとっては、ますますそのような手段に出ざるをえなくなるのだ。
宿題をしてくることを前提にしてはいけない
子どもたちは様々な環境下(影響下、性格、能力等も含む)に置かれている。
①家庭でしっかり見てくれる環境
②子どもに任せている環境
③習い事(塾やスポ少など)がたくさんあって時間がとれない環境
④「宿題なんてやっていかなくてもいい」と言われる環境
⑤理解力不足でなかなか追いつかない環境
⑥自分だけでもしっかりできる環境
等々。そのような多様な環境を考えてみると、みんながみんな宿題をこなすということは、現実的に考えられないのである。
宿題をやれるような環境にない子どもに宿題をやらせることは困難なのである。では、そういう子どもは、どうするかというと、
「何とかして、やったことにして、スピーチをしなくて済むようにしよう」
となるのが自然であり、至極当然のことだと思う。
ではどうすればよいのか
なかなか難しいというのが実際のところ。
そもそも、宿題は家庭で行うものであるため、学校でどうこうできるものではない。しかし、進学したあとの「自学」というのを考えた時、困るのは子どもたちであり、社会に出たときの「課題解決」で困るのも子どもたちである。
そう考えたとき「自主的に向かえるかどうか」が1つのポイントになる。
だとしたら、罰はマイナスであることは明白。自主的に向かう方向性が全く違うところにいってしまうから。
では、、、
「宿題をするのは当たり前ではなく」
「自主的に向かわせたい」
というのを照らし合わせると、
もっと、
「宿題をやってくる子」
「課題を自分からこなす子」
に目を向けることが大切なのではないか。このような子どものよさを認め、そのよさを価値付けてあげる。そうすることで、少しずつかもしれないが、そのよさが広まっていくのではないかと思う。