子どもは特に思考と表現が一体化していると言われる。
考えながらどんどんと活動を進めていく。そのため、当初の計画や案とは違ったものが出来上がっていくことがよくある。
その、思考と表現が一体となっている中に、その子なりの創意工夫が見られたり、思いがけないものが創造されるため、とても興味深い。
しかし、教師はその変化に寄り添うことができず、
「設計図と違うじゃない!」
「なんでこんな風にしちゃったの⁉︎
「こうしなって言ったでしょ!」
と言ってしまいがちだ。
子どもの表現はまだまだ拙く、裏付けがないものが多い。だからこそ、その表現の家庭における連続的な思考を肯定的に捉えてあげなければ、作品も肯定的に認めてあげられなくなる。
しかし、この「思考と表現の一体」は、ときにトラブルも引き起こす。
よく考える前に行動を伴うため、しばしば友人関係で揉め事が起こる。
低学年では特に、
嫌なことがあると、その背景を捉えられず、または、自分を棚に上げて、
叩く。
悪口をいう。
告げ口する。
などの行動を起こし、結局怒られるなんてこともよくある。
しかし、少しずつ冷静に考えたり、相手に寄り添ったりしながら、表現の前に思考の整理をするようになる。
ただ、その一方で「思考と表現の一体」自体が高レベルのものになり、トラブルになることが高学年になると見られるようになってくる。
それが、
陰口をいう。
メモを回す。
などである。気に入らないことがあると、めんと向かって表現することはしなくなるが、別の形をとって表現しだすのである。これが、陰湿ないじめの元となるのであろう。
こうなると、表現が目に見えにくいところで表れるため、見逃しがちだ。当事者が見つけ、自分たちで揉め事を起こすならまだましだが、第三者がそれを見つけてしまうと、別のところにも問題が広がっていくため厄介だ。
成長するにつれて、思考の段階で、
「先を考える」
「人間関係を考慮する」
「自分自身を省みる」
ということを経た上で、表現しないといけないことがでてくる。
この段階の子どもたちの見取りと指導の難しさを感じる。
低学年のときに、やはり、どんどん自分なりの表現が保証されていれば、友達の表現や在り方も互いに認め合ってていけるようになるのだろうな。