今、先生方は「学習指導案」たるものを一生懸命つくっている。それは、10月頭に教育委員会の方々が来校し、一人一人の授業を参観し、事後研究会でご指導をもらうからである。
勘が鋭い人は、ここでもう違和感を感じたのではないか?
そう、端的にいうと、
「偉い人たちが見に来るから学習指導案をつくっている」
のである。
確かに、偉い人たちが来たり、校内で研究授業をしたりすることがなければ、学習指導案などつくらない。だから、間違いではない。
しかし、もしかすると今回の場合「偉い人たちが見に来るから」という理由だけで学習指導案をつくっている先生方もいるのではないかと思ってしまう。
その目的の先にあるものは何?
目的の先にあるものを見つめたい。例えば「偉い人たちが見に来るから」という目的の先を見ていこう。
例①「仕方がなくつくる」
もしかすると、このタイプが1番多いかもしれない。偉い人たちが来ることになり「学習指導案をつくりなさい」と言われたからである。「つくれと言われたからつくる」もっともな意見だ。ただ、とにかくつくってしまえさえすれば目的は達成される(ヘッポコ過ぎれば直しが入るだろうが)。
例②「少しでもよい授業を見せたい」
このタイプはちょっと大変だ。それは1単位時間の構想をしっかり立てなければならないから。子どもたちの反応を予想し、それに合わせた手立てを講じなければならないからである。でも、大変な分参観者にも認めてもらう可能性が高くなる。
例③「参観者に主張したい」
このタイプはもっとすごい。これまでの自分の指導の在り方を参観者に問うのである。だから、構想も1単位時間だけではなく、単元やそれらの系統で見ていく必要がある。
では、目的の終着点にあるものは?
目的の先を見ていった時のその終着点を見つめると、本当の目的が見えてくるのではないか。それは「何のためにやっているのか」のもっと先にある(というか究極の目的ともいえるのではないか)「誰のためにやっているのか」ということ。今回の場合の対象は3人。①子ども、②自分、③参観者(偉い人たちや管理職)である。※もしかすると④保護者も入るかもしれない。
では、先に上げた3つの例で終着点を見ていきたい。
例①
これは確実に「自分のため」でしかない。つくり終えれば自分の仕事が減る。だから学習指導案をつくるのだ。子どもたちはほとんど見えない。
例②
これは「自分のため」かもしれないし「参観者のため」かもしれない。一見、すばらしい目的かもしれないが、結局は「『いい授業だった』と褒められたい」であったり「いい授業を見せて参観者を安心させたい」であったりで終わってしまう可能性があるのだ。やっぱり子どもは見えにくい。
例③
これは曖昧だが、私はこれこそ「子どもたちのため」だと思う。これまでの自分を見つめなおすのは、よりよく子どもたちに返していきたいと思うからこそ。「子どもたちのため」だからこそ、結果的に「自分のため」「参観者のため」になる。
少しでも・・・
例③のようにするのは難しい。でも、少しでも、少〜しでも「子どもたちのため」に考えたい。どうせやるなら(やらなければならないのなら)、子どもたちのためになる授業にしたいし、それも無理なら意識だけでもしたいものだと思った。