同僚を叱ったのは初めてかもしれない。私は同じ身分の同僚を叱れるような立場でもなく、そんなに立派な人でもないのに。。。
何かと行動や仕事に対する態度が気になる初任者。
「大学を出たばかりだから仕方がないのか」などとも思うが、だとしたら「じゃあ、その人はいつ、それ相応の行動ができるようになるのか?」とも思ってしまう。それが、その人の「資質・能力」だとしたら、そこで終わってしまうだろう。
最近はそんなことを考えながら毎日のようにモヤモヤしている。
そんな中、今朝こんなブログ記事を読んだ。
この『そこに愛はあるのかい?』のブログ主、ななこさんは、保護者の立場で教育を見つめてらっしゃる方。我々教員が意識していないところ(当たり前になってしまっていること)に疑問を感じ、それを綴ってくださっている。
私自身、ななこさんのおかげで、「独りよがり」「自分勝手」「傲慢」になりそうな自分を戒めることができている。
話は戻して、今朝のななこさんの記事のこの一節。
しかも、皆んなで助け合いながら勉強を
していく事…とても素晴らしい事だと思うん
ですが、今の子供達はこうして親からも、
先生からも社会からもチヤホヤ(ちょっと
表現が間違えているかもしれません)
されているような気がしてきて…。
社会に出た途端に突然の厳しさについて
行けなくなるのではないだろうか…?
と心配に思う事が、ふとあります。
この表現から、「そうなんだよなぁ」と、モヤモヤの原因が見えてきたような気がした。
親や先生方に支えられながら、自分の感じる「はてな(?)」を解決するために、友達と学び合いながら解決していくことは大切だと思う。特にこれからの社会は、その「はてな(?)」が多岐にわたり、幅広い疑問に包まれる。その「はてな(?)」自分一人の力では解決できないことの多さに気付くだろう。そんな中、自分との関わりで周りの人たちに働きかけながら、共に解決していくことが必要になるのである。
しかし、実際の子どもたちは、「自分との関わりで」問題解決に向かっているかといえば、かなりの疑問だ。主体的とはいえず、むしろ、先生のお膳立てのもと、敷かれた考えるレールを進み、失敗しないように親や先生のサポートを受けながら歩んでいる。「石橋を叩いて渡らない」ような生き方をしているのように見える。
極力失敗しないように助けられ、周りからおだてられ(チヤホヤされ)、先生に怒られようものなら親が登場し、友達とのケンカも止められる。何をするにもすべて人が決めてくれる。
そんな育ち方をしてきたのなら、「周りを見て行動する」とか「人の気持ちを考える」とか「空気を読む」とか「苦労する」とか「挫けないでがんばる」とか「自分を後回し」とか、、、そんなことを考えることができるはずがないような気がする。
「初任者を大切にしてほしい」
というように言われているとのこと。つまりは、「あまり厳しくすると、辞めちゃうから、優しく教えてあげてね」ということだろう。
じゃあ、どこにしわ寄せが来るのだろう。最終的には子どもたちだ。
確かに今の初任者は知識はあるのかもしれない。でも、その知識の本当の使い方も、使う場面も知らない。泥臭く傷つきながらがむしゃらに生きる経験をしていないのである。
これからの変化の絶えない社会を力強く生き抜くためには、厳しさが必要だ。失敗や挫折したっていい。むしろ、そこからどう立ち上がるのかを自分で考えられるような人を育てたい。
そして初任者も、不本意だろうが私に叱られたことを「生きた経験」として、本当の社会人に近付いてほしい。
が、今日も主任にお茶を入れてもらっている初任者様でしたとさ。チャンチャン。。。