私の授業の理想像は、子どもたちが「正解・不正解に関わらず、自由に思いをもったり、自分の考えをもったりできること」「そして、正解・不正解に関わらずその思いや考えを表現できること」である。
一見、子どもたちが自分の考えを自信をもって表現し合っているような「活発に見える」授業でも、冷静に客観的にその授業を見てみると、「一部の子どもたち」が自分の思いや考えを表現しているだけであるということがよくある。それが一番怖い。
様々な思いや考えがあってこそ、授業に深まりが生まれるのは事実だと思う。
なので、「できるだけたくさんの子どもたち」が自分を表現できるようにさせたいと思っている。
そのため、1学期はとにかく子どもたちに「思ったことを自由に話していいんだよ」「間違っていたとしても大丈夫だから、自分の考えを書きな」「もっと自由に話せばいいのに」「なんで何でもいいのに考えをだせないの?」などと言って、子どもたちに思いや考えの表出を促していた。
でも、ふと自分の授業を思い返した時に、「これって(考えをもたなかったり、考えを表現しなかったりすること)子どもたちのせいなのだろうか?」という疑問を感じた。
「『自由に』『何でもいい』っていっているのに、それを表現しない子どもはダメだ」とか「どうしていつも人任せなんだ!」などと思っていたが、そもそも「子どもたちに興味関心があったのか」「子どもたちが考える必要感をもたせられる課題や題材、教材だったのか」という視点で考えると、完全に私のせいであるのは明らか。
去年、一昨年と私の手立ての一つに「魅力的な課題の設定」というのがあった。もちろん今年も意識している。
この考え自体は間違えておらず、大切なことだと思うが、それができているかどうかは別だ。もしかすると(いや、もしかしなくても)、「こんなにおもしろい課題を提示しているのに」という独りよがりだったんだろうと思う。
漠然とした「おもしろい課題」ではだめで、目の前の子どもたちの実態にあったものであり、その子どもたちが「おもしろい」と感じる課題でないといけないんだなと改めて思った。