なぜ、学校に行って勉強するのか、
「将来の可能性を狭めないため」
「日本の国力の水準を保つため」
などともいわれ、
最近では、私は
「豊かな人生を歩めるため」
かなぁと思っている。
これは、大人なりに子ども目線に立った見方だと思う。
でも、子どもたちにはそれがなかなか伝わらない。伝わらない時点で子ども目線ではないのだが。子どもたちは人生経験に乏しいからこそ、学校に行って勉強することに意義を見出しづらい。「勉強することは嫌なこと」という図式が強く、なかなか自分事として捉えられない。
そう考えると、子どもたちに学校で勉強する意義をどう伝えたらよいのかということに視点をあてる必要があることが分かる。
それは、とどのつまり、楽しい授業だろうなと思うのである。勉強する楽しさ、つまりは学びの楽しさを感じれば、自ずと自分の将来や人生そのもの、もっといえば、日本という国について考えるようになるのではないだろうか。
しかしながら、残念な先生が多いのも事実。
英語の授業はやりたくないといい、やらなかったり、道徳の時間は読書で済ませたり、算数はドリル学習のみだったり、理科の実験は準備が大変だからと、結果のみ伝えて終わらせたり、体育は子どもたちが勝手にできるバスケとサッカーばかりだったり、音楽はずっと笛を吹かせ続けるだけだったり・・・。
どこにも子どもがいないのである。あるのは、自分の都合ばかり。自分がやりたいことだけやり、やりたくないことは一切やらないのだ。まあ、やりたいこともほぼないため、楽しかしない。ある意味での働き方改革である。
そんな一部のダメ教員の目で見ると、
子どもたちが学校にきている理由は、
「自分がお給料をもらうため」
でしかないのだろう。
何かを教えるとか、考えさせるとか、共に学ぶとか、そんなことは一切頭にはない。子どもたちが学校にきさえすれば、自分がお給料をもらえるということだろう。ただの金の対象でしかないのだと思えてしまう。
残念なことに、子どもたちにとってもそれが「win-win」の関係になってしまうこともある。子どもたちも勉強したくないため、先生がいいかげんだと、自分たちも楽ができるという構図だ。
そして、ドンドンと日本が沈没に向かっていくのである。。。