しがない教頭の学校・職員室・生活日誌

高いアンテナ・豊かな発想で生活を明るくするためのブログ

「言葉」「表現」を大切にする

「子どもを見取り、価値付けていくようにする」

ある先生の学期末学年懇談会のための資料に書いた、成果と課題の文言である。


このような文章をよく見かけるが、申し訳ないが「?」でいっぱいである。


まず、「子どもを見取る」ということだが、子どもの「何」を見取るのかが分からない。子どもの「思い」なのか「考え方」なのか「表現」なのか「子どもの伸び」なのか「変容」なのか・・・。まあ、確かにそれぞれの教科等の本質や単元の目標、その時間のねらい、子ども一人一人の実態などによって、「見取る」ものは違う。だからこそ、「見取る」という言葉を大切にしないと、何をもとに評価したらよいのかが曖昧になってくる。


そして、その見取るもとが分からないからこそ「価値付けていくようにする」となってしまうのだ。これも、「何」を「どのように」価値付けていくのか分からない。価値付けるためには、その子どもの「よさ」を見取って、「その場面にあうように」そのよさを価値付けていかなければならない。やはり価値付ける対象が曖昧だと価値付け方も曖昧になる。そう考えると「価値付ける」という言葉も大切にしなければならない。



なぜ、こんなことを記事にしているかというと、このような文章が、そのまま一人一人の通知表の所見につながってしまっていくのである。懇談会要項のように、全体にいきわたるような文書ならそれでもいいのかもしれないが、一人一人の通知表ではさっぱり先生の思いや意図が伝わらないし、自分の子どもの実態や今後どうしていきたいのかも全く伝わらないのだ。



お便りや通知表に限らず、先生方はあまり思慮せずに「言葉」を用いたり、「表現」したりしてしまっているように感じる。「この言葉を使うってことは、◯◯ということなの?」のように質問すると、答えに詰まってしまうし、「この表現って◯◯ということだけど、そこまで言えるくらいの実態なの?」と聞くと、「いや、そこまでではないですけど・・・」となる。

言葉や表現は、自分の思いや考え、意図などを読み手に正しく伝えるための手段である。それを曖昧なままで使ってしまうと、読み手は違った捉えをしてしまうかもしれない。

どこかかっこよさそうな言葉や、一見理知的に見えるような表現を思いつくと、使いたくなるのも分からなくはないが、それが大袈裟に捉えられたり、逆の意味で捉えられたりしてしまう危険性は大きくなる。


もっとその「言葉」や「表現」のもつ本当の意味合いを見つめ、そして、それが目の前の子どもや集団の実態にそぐうのかを見極めていく必要があるなと思う。


そんな私の文章もだいぶ怪しい。。。