しがない教頭の学校・職員室・生活日誌

高いアンテナ・豊かな発想で生活を明るくするためのブログ

オリジナルを生み出すようになるまで

「朱を入れてもらえると(直しを入れてもらえると)、安心します」と、話す先生。その先生がつくった文書(指導案や起案文書、学年だより、通知表等々)を教務や私が朱を入れる。その先生は「読んでもらえているんだと分かってうれしい」とも話す。

自分の文書はまだまだだから、見てもらって直してもらえるとうれしいし、安心するということだ。

その先生の文書。4月と比べると、おもしろい変化が見られる。

朱の数はほとんど変わらない。たくさん朱が入る。

でも、朱が入る文章の質が明らかに変わっている。

それはどういうことか。

新しく文書をつくる際、我々が直した時に使うような表現を使うようになってくる。表現の幅が広がっているのだ。我々の真似をしていく中で、どんどんとそれを自分のものにしていっているのだ。


それでは何故、朱の数が減らないのか。

それは、我々の真似をしていくうちに、少しずつ、その先生なりのオリジナルの表現が生まれてくるのだ。それらの表現は、まだまだズレがあったり、行間にはそぐわないこともあるが、確実に表現は豊かになってきている。



また、ある先生。
その先生の文書もやはり朱を入れて直す。
でも、その先生は、我々が朱を入れたものをよく読まずに、そのまま直して終わらせてしまう。よくその先生に「朱を入れたけれど、先生の思いとズレがあるかもしれないから、その時は違う表現にしてもいいよ」と声をかけるが、いつも決まって「いや、教頭先生が直したので大丈夫です」と答える。

その先生の文書にはあまり変化は見られない。そして、どこか爪が甘い。その先生が書く文書には重みがないのだ。

何かをつくるにも、必ず、前の先生のつくった文書に上書きしているだけで、ひどい時にはそのまま使ってしまうこともしばしば。

つまりは、成長が見られない。



上記の2人の先生。共通するところは、「真似をすること」だ。でも、違う。最初の先生は「真似をして、それを自分のもの(スキル)にしていく」のであり、後の先生は「ただ、そっくりもらう」だけであるため、自分では何も生み出していないのだ。


半年も過ぎると、大きな差が生まれてくる。かたや、オリジナルを生み出せるようになり、またかたや、人の褌で相撲をとっているだけだ。



我々教員というのは創意工夫が必要な仕事だと思っている。授業はもちろん、学校運営面であっても、学校や地域、子どもたち、年齢構成、専門性等々、あらゆる環境の違いによって、つくり上げるものが変わっていくと思う。それらに応じて、その時に合ったもの、いわばオリジナルの考えを提案していくことができるようにならないといけないと思うのだ。


そのためには、真似も必要だし、自分なりに考えることも必要だ。でも、その中で絶対に落としてはいけないのは、「自分がやる」という使命感である。

はじめからオリジナルを生み出せる人はいない。みんな最初は人の真似をして、それを自分のものにして、そこに自分なりの要素を加えて発展させ、、、そういうことを繰り返していくうちに、真にオリジナルなものを生み出せるようになるのだ。

そして、それができるようになったときに、自然と力もついているということだ。